「源氏物語」薄雲の巻・明石の尼君、明石の君に姫君(明石の姫君)を紫の上に渡すことを勧める・大炊御門宗氏・自筆・茶道・茶道具5A

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(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)「自筆原本」自筆右下四つの印のうち上2つは、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子・と娘の幾千姫(玉映)の落款。下2つは、仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室・伊達貞子の押印自筆上部の「四望唯煙雲」《四望(しぼう)するも唯(ただ)煙雲(えんうん)のみ》という白楽天の漢詩の篆書印が押捺されている。漢詩の意味は、「あたりを眺めても靄(もや)と雲しか見えない」という意味。この漢詩は白楽天の「文集」の中の有名な一節です。《原本中の凹凸はストロボの影響によるものです。》自筆下部の印は仙台藩医・木村寿禎の落款(印譜)自筆が「古切」とされたのは江戸時代。古切に至る詳細な経緯は下記「希少価値欄」に記載(1)・自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。《「源氏物語」薄雲(うすぐも)の巻》原文には「四望唯煙雲」《四望(しぼう)するも唯(ただ)煙雲(えんうん)のみ》という白楽天の漢詩の篆書印が押捺されている。漢詩の意味は、「あたりを眺めても靄(もや)と雲しか見えない」という意味。この漢詩は白楽天の「文集」の中の有名な一節です。《あした、》・・・・きしかた(方)ゆくさきのこと(事)、のこ(残)らす思ひつゝけて、れい(例)はことにはし(端)ちか(近) なるい(出)てゐ(居)なともせぬを、みきはのこほり(氷)なとみ(見)やりて、しろ(白)きゝぬとものなよゝかなるあまたき(着)て、なかめいたるやうたい、かしらつき、うしろてなと、かき(限)りなき人ときこ(聞)ゆともかうこそはおはすらめ、と人々もみ(見)る。おつるなみた(涙)をかきはら(払)ひて、「かやうならん日、ましていかにおほつかなからむ」と、らうたけにうちなけきて、「雪ふか(深)みみ(深)山のみち(道)はは(晴)れすともなほふみかよへあとた(絶)えすして」とのたま(宣)へは、めのとうちな(泣)きて、・・・・《ゆきまなき》(文責・出品者)「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。(2)・自筆の「原文の現代語訳文」は次の通りです。《「源氏物語」薄雲(うすぐも)の巻》《源氏の君、明石の姫君を養女にとの思いを明石の君に伝える》《明石の尼君、明石の君に姫君(明石の姫君)を紫の上に渡すことを勧める》《(明石の君)「どうしてなのか、さまざまに気苦労を重ねなければならぬ身の上ではあった」と女君(明石の君)は嘆息して、日ごろにもましてこの姫君(明石の姫君)の髪を撫(な)でたり櫛(くし)を入れたりしている。雪が空を暗くして降り積った翌朝》・・・・・女君(明石の君)は、これまでのことこれからのことを際限もなく思い続けていらっしゃる。女君(明石の君)は、いつもはあまり端近(はしぢか)に出ていたりなどしないのに、汀(みぎわ)の氷などを眺め、白い衣のなえたのを何枚も着重ねて、ぼんやりと虚(うつ)けている姿は、髪かたちといい後ろ姿といい、このうえない高貴なお方と申したところで、まずこれくらいでいらっしゃるのだろう」と女房(明石の君付女房)たちも見ている。女君(明石の君)は、こぼれる涙を払って、(明石の君)「これから先、このような日には、なおさらのこと、どんなに頼りない心地がするでしょう」と、いかにもいたわしく嘆息して、女君(明石の君)は、こぼれる涙を払って、(明石の君)「雪の深いこの山道は晴れ間がなくても、やはり途絶えることなくお便りをお寄せください」と女君(明石の君)がおっしゃると、乳母(めのと)は泣いて、・・・・・《(明石の君付女房)「たとえ雪の晴れ間もない吉野の奥山を捜してでも、心を通わせる跡の途絶えることがありましょうか」と乳母(めのと)が女君(明石の君)言い慰めている。》現代語訳の出典・「源氏物語」小学館刊・阿部秋生・東大名誉教授(1999年没)備考・出品した自筆は、大炊御門宗氏・自筆で近衛基熙の旧・所蔵になるものです。(2)・自筆の「英訳文」は次の通りです。《A Rack of Cloud(薄雲)》On a dark morning of drifting snows she went to the veranda and gazed out at the ice on the river and thought of what was past and what was to come. It was not like her to expose herself so. She preferred the inner rooms of the house. Warmed by several soft white robes she sat lost in thought; and the molding of her head and the flow of her hair and robes made her women feel sure that the noblest lady in the land could not be lovelier. She brushed away a tear and said to the nurse: "This sort of weather will be even more trying now. "These mountain paths will be closed by snow and clouds. Do not I pray you let your tracks be lost." The nurse replied:英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)(2)・自筆の「中国語訳」は次の通りです。《薄云(薄雲)》平日得到檐前坐,一天回思往事,想将来,偶来到檐前,坐眺池面冰雪。身上穿着好几柔的白色衣衫,景思,姿雅。看那鬟髻和背影,无何等身高的女子,其美貌也不如此。起手来揩拭眼泪,道:“今后再逢着的日子,更不知何等凄凉也!” 便声哭泣起来。而吟道:中国訳文の出典:『源氏物語(Yunsh wy)』豊子愷(ほうしがい)中国最初の「源氏物語」翻訳者(文化大革命で没)「薄雲の巻」原本の末尾(原本番号33-B)の印は、仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室・伊達貞子の押印左の写真が「源氏物語」薄雲の巻の末尾(原本番号33-B)の押印。写真左下の角印が仙台藩の家紋印(竹に雀)家紋印の上の2つの印は仙台藩主第五代藩主・伊達吉村の正室(冬姫)。冬姫は内大臣・通誠の養女。冬姫は通称。正式な名は伊達貞子。上部には、「始是新承恩沢時」《始めてこれ、新たに恩沢を承(う)くるの時》という篆書印が押捺されている。この漢詩は漢の皇帝が楊貴妃にまみえたときの白楽天の有名な描写である。篆書体右の二つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)と娘・玉映の落款右端の写真上は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。表紙の下は一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)(奥書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。)自筆の疎明資料等は、下記の通りです。(Ⅰ)・上の写真右端は、高松宮「源氏物語」のうち「桐壺」の巻冒頭・(出典資料 別冊「太陽」「源氏物語絵巻五十四帖」(平凡社・刊)78頁。筆者は近衛関白政家公。中央の写真は、応永五年(1398)の年号。年号の左の印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)。左の写真は、桐壺の巻の奥付。左大臣から関白に昇進した近衛基熙(もとひろ)公の花押。上下2段の花押のうち、上の印は。出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)、下の印は仙台藩医・木村寿禎の落款(印譜)「自筆の画像断層(MRI)写真」(出品した自筆の「断層画像写真」(薄雲の巻)MRI 19―5A自筆下二つの印のうち下は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)」、上は娘の幾千姫(玉映)の落款「源氏物語」薄雲の巻の絵の資料下記写真は、明石の姫君を抱く明石の君(屏風)「天皇の曽祖父・大炊御門宗氏の系図」「額縁裏面表記ラベル」1番上の写真は、第103代後土御門天皇と曽祖父・大炊御門宗氏の系図(公家事典303頁)2番目の写真は「額縁裏面」に表記されるラベル。大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧所蔵(断簡)を出品商品説明(来歴)大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、第107代後陽成天皇の曾孫・近衛基熙の旧所蔵である。近衛基熙は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を書いてある。出品した大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに近衛家から出雲松江藩主・松平治郷(不昧公)の正室・方子(よりこ)に伝わり、方子の生家である仙台藩から同藩の藩医・木村寿禎に伝来していたものである。漢詩文原文上部には「四望唯煙雲」《四望(しぼう)するも唯(ただ)煙雲(えんうん)のみ》という白楽天の漢詩の篆書印が押捺されている。漢詩の意味は、「あたりを眺めても靄(もや)と雲しか見えない」という意味。この漢詩は白楽天の「文集」の中の有名な一節です。紫式部が「薄雲」を書くに際し、「白楽天・漢詩集」の漢詩を熟読したうえで「源氏物語」の「薄雲の巻」を書いていることがわかります。この原詩の言葉の引用は、「薄雲の巻」に用いられていることで広く知られている。紫式部がこの原詩に親しんでいたことがわかる。漢詩の落款の意味原本上部の漢詩の落款は、「讃」と称されるもので、古来、掛軸の書画に第三者がお褒めの言葉を書き込むもので元々は自筆でした。貴族から始まり藩主、あるいは高名な茶人や僧侶が書かれて、それが茶会の「掛軸」に装丁されて披露されておりました。 特に出雲・松江藩などの茶道の盛んな大名家の所蔵する自筆などに「讃」が付され、後に自筆に代わり、石刻による「漢詩」の篆書が「讃」として用いられました。 「茶事」は、「ヨーロッパの晩餐会(ばんさんかい)」とも言われます。晩餐会では、「ワインを楽しむために行われる」ところも似ています。とりわけ、茶室に入って行うことは、床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)することです。茶道では「掛け軸は最高のごちそう」といわれております。とりわけ、漢詩の落款は、ただ、古典の漢詩を入れればいいという単純なものではなく、たとえば、「源氏物語」の場合、原本の中に込められている紫式部が考えた知識を読み解くことにあります。「讃」の中に有名な白楽天の漢詩を単純に落款として入れたのではなく、紫式部が原本の中に白楽天の漢詩を読み込んでいることを知ったうえで漢詩を選んでおります。 落款の「讃」の元になるその原文の個所には、「四望唯煙雲」《四望(しぼう)するも唯(ただ)煙雲(えんうん)のみ》という白楽天の漢詩の篆書印が押捺されている。漢詩の意味は、「あたりを眺めても靄(もや)と雲しか見えない」という意味。この漢詩は「白氏文集」に由来するものです。つまり、原文の内容に関する漢詩の落款を押捺しているのは、茶会における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶会を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために披露したものです。茶会の際に落款に記された由来を知った客が広くそのことを社会に広めたために結果的に、多くの茶会に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩の落款を付したものです。「落款」の漢詩の由来を待合において説明する際に、長い時間を要し、茶会における貴重な時間であったと推定されております。自筆の希少価値について自筆の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。上の「拡大断層(MRI)写真」でわかる通り、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がるように「源氏物語」の文字が記されております。出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。撮影後、展示のために再表装をしております。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。断層(MRI)写真従来、日本の古美術の鑑定の際の分析・解析は、エックス線写真、赤外写真、顕微鏡が中心です。一方、アメリカやイギリスでは研究が進み和紙の組成状況を精確に分析・解析をするために断層(MRI)写真が利用されており、今回の出品に際し、「断層(MRI)写真」を資料として出しました。本物を見分けるための欧米の進んだ分析・解析技術を見ることができます。寸法「源氏物語」自筆の大きさ タテ21.8センチ ヨコ12.8センチ。額縁の大きさは タテ37.0センチ ヨコ28.0センチです。額縁は新品です。「源氏物語」の自筆について1・筆跡の分析について 国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。2・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について自筆の筆者は、書体、書風から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以来、筆者名は特定されていなかった。その後、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奥書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。それが、技術の進歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結果、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。宗氏は、正二位・内大臣まで昇進したのち、応永28年(1421)47歳で没している。3・自筆「源氏物語」の旧・所蔵者の特定の経緯について近衛基熙の旧・所蔵の特定は、「花押」の写真照合技術によるものです。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです。4・近衛基熙(このえもとひろ)について近衛基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛尚嗣(関白・左大臣)の長男として誕生。母は後水尾天皇皇女女二宮。実母は近衛家女房(瑤林院)。幼名は多治丸。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護下で育てられた。承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に叙せられ、左近衛権少将となる。以後、摂関家の当主として累進し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。明暦2年(1656年)に権中納言、万治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。寛文5年(1665年)6月、18歳で内大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延宝5年(1677年)に左大臣へ進み、長い時を経て元禄3年(1690年)1月に関白に昇進した。近衛基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いているHP近衛基熙・旧所蔵「源氏物語」自筆を出品いたしました。出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。ツイッター「源氏物語の世界」も合わせてご覧ください。

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